「研究スキル売買」について問題提起をする記事が、毎日新聞に先月、掲載されました。記事によれば、インターネット上のスキルマーケットなどで、研究者の人たちが論文執筆やデータ解析などの研究スキルを販売し、取引は売買側ともに匿名で行われているという内容でした。大学教授などの肩書を持っている人も含まれていたとのこと。毎日新聞の調べでは、スキルマーケットのうち7社で118人が研究スキルを売っていたことが確認されたとしています。売買側ともに匿名でのやり取りなので、研究不正につながりかねないという懸念が示されています。
「研究スキル売買:売られる研究スキル 教授ら百二十人、匿名で論文支援 論文偽装、助長の恐れ(毎日新聞9月15日付)
「研究スキル売買:研究スキル8万円で購入 私大教員、教授に論文投稿せかされ 匿名のやりとり、不安」(同)
「科学の森:研究費『選択と集中』引き金か 学術論文、低迷続く日本」(同9月16日付)など
私はこの記事を読んで、他人事ではないと感じました。なお、弊社事業が疑いの目を受けられるかもしれないという不安は、まったく感じておりません(これについては後述します)。むしろ、弊社事業を通じてクライアントの先生方とやりとりする中で、研究者の皆様がおかれている状況を少しでも知っているからこそ、「研究スキル売買」問題の背景にある切実さも少しわかる気がしました。そこで、この状況を憂えるというよりも、私の仕事である文章を通じて垣間見る研究の世界を、多くの科学者の方と関わっている自分の言葉で語ってみたいと考えました。
当プロジェクトでは、理系の研究に必要な競争資金の応募に際し、申請書を執筆する上での助言を行うと共に、校正業務を提供しております。研究計画がどんなに素晴らしくても、申請書がきちんと書けていないと研究費を得られません。研究は込み入った内容なので、一人で書いていると分かりづらくなってしまうため、分かりやすい内容にすることが求められています。
助言する内容は、文章の書き方や構成にとどめています。理由は、担当する代表の堀江の学位が文系(厳密には社会学系)であり、当プロジェクトで提供するのは編集スキルだからです。また、お預かりする文書も基礎・応用系いずれにも対応しているため、内容に踏み込むとすれば、どれだけ博覧強記であっても十分ではありません。「原則的に」としたのは、文章を練っていく過程で、例えば研究課題の表現を変えた方が適当であろうと思われるような場合などには、その旨助言します。クライアントの先生方には、「専門外の人にも、内容をある程度理解できる文章になっているか」という問題意識を持っている方も多いです。
文章を含むコミュニケーションはまず、「伝わらない」ことを前提とすることから始める必要がある。これは、編集を生業とする自分自身への戒めでもあります。
助言および編集を行うにあたって、私はいつも、さまざまな質問を筆者の方に投げかけます。「理系だったら当たり前の知識かもしれない」「こんなことを訊くとアホだと思われるかも…」などと、時には恥ずかしいなあと思いながら尋ねるのですが、それに対して「読めばわかるでしょ」「そんなことも知らないのか」という態度をみせるクライアントの先生は皆無です。
科学について、我々一般人は専門家だけのものだと考えがちですし、一方で、社会に対する科学者のコミュニケーション不足が指摘されることもあります。しかし、当プロジェクトで対応する先生方は、私のように専門知識を持たない者でも理解できるように、大事なポイントについて一生懸命に説明されます。その度に、研究者の方たちは自身が取り組む研究内容・成果について、もっと知ってもらいたいのだなと感じます。競争資金や論文の査読者といった限られた対象だけではなく、もっと広い社会に対してです。
「研究スキル売買」の記事
先に挙げた毎日新聞記事の中で、学術論文に盛り込むデータ解析や執筆などに関する研究スキルを8万円で購入した私大教員のケースが挙げられていました。少し長いですが、引用します。
2018年に大学の医療系学部に着任。医療現場での仕事の経験が長く、論文を執筆した経験が乏しかったため、所属先の教授に研究や論文執筆の指導を仰いだ。だが、「あなたからお金をもらっているわけではないから、教えるなんて思っていない」と突き放された。
教授から毎週呼び出され、「なんで研究しないのか」「そういう人が大学の教員である必要はない」と何度も追い込まれた。(2021年9月15日付)
記事によれば、このケースでは依頼者側、研究スキル提供側の双方とも匿名だったそうです。取材に応じた私大教員は、ゴースト・オーサーシップに該当するかもしれないという後ろめたさを感じているとも書かれていました。別の記事では、匿名で研究スキルを提供した大学教員は、「研究費を稼ぐためにやった」と説明していました。
こうした記事を読んで、私はある先生から聞いた話を思い出しました。同僚間でフィードバック等を行うのはいいけれど、批評というより批判に近くなってしまうこともあり、結果としてお互いの関係がぎくしゃくしてしまい職場の雰囲気が悪くなっているとのことでした。なお、このエピソードは、記事にあるようなグレーゾーンの話題とは無関係です。
例えば、受け取るフィードバック内容が、「書いてあることが意味不明」といった程度で、どのように分からないのかが説明されていないことが多いそうです。自分が書いたものについて「分からない」などと批判だけされると、誰でも気分は良くないものです。ただ、その理由についてきちんと説明するのは時間を費やすことになりますし、また、そこそこのスキルも必要です。記事の例と共通する点があるとすれば、各研究者が過度に忙しい状況に置かれることで、さまざまなひずみとなって現れているということの例かと思います。
過度な忙しさの背景には、国立大学の独立法人化や、公的研究費助成の「選択と集中」があるのだと思われますが、本稿の主題から少し逸れるのでこれ以上は言及しません。
科学が進歩する原動力のありか
ちなみに、当プロジェクトでは文書を書き上げるのは当然、筆者の方です。当方が、「xxに関する情報が含まれていないから、文章が意味不明になっている」「この文章は長すぎて、理解するのが難しい」等々のフィードバックを行い、それに基づいて先生方は何度も何度も書き直して納得いく形に近づけていきます。そこで私が目撃するのは、研究者の方の、研究と科学に対する真摯で謙虚な姿勢です。こうした姿勢が、粘り強く研究対象に迫ることの連続、つまり研究生活を支えているのがよくわかります。
また、私はここに、科学が日進月歩で動いていく原動力を見る思いがします。研究者の道を選ぶ方は、知識に裏付けされたエネルギーをたくさん秘めていらっしゃいます。そのエネルギーが文字の上でも存分に表現されるために、バックアップしていくのが当プロジェクトの役割です。研究テーマの視点や、その計画を過不足なく裏付ける情報を文章の上で整理します。余分な粉飾は一切加えません。
研究者の方が掲げるテーマについて伺っていると、entrepreneurship(起業家精神)に共通するものを感じます。研究対象に対する関心は「この疾患の治癒の鍵を握る●●の仕組みが未解明である」「現状の●●の認識は違っているのではないか」「環境負荷がより低い素材を●●で作る」など、何かを知るために突き詰めます。起業家が、「自分は●●を解決したい!」との情熱を持って脇目も振らずに動き出すのと共通していると、感じています。
寺田寅彦は、頭が良いだけでは「先生にはなれても科学者にはなれない」と言っています。
頭のいい学者は(…)何か思い付いた仕事があった場合にでも、その仕事が(…)せっかく骨を折っても結局大した重要なものになりそうもない、という見込をつけて着手しないで終る場合が多い。しかし頭の悪い学者はそんな見込が立たないために、人からは極めてつまらないと思われる事でも何でも、我武者(がむしゃ)らに仕事に取付いて脇目もふらずに進行していく。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結果に打(ぶ)つかる機会も決して少なくはない。この場合にも頭のいい人は人間の頭の力を買い被って、天然の無際涯な奥行を忘却するのである。科学的研究の結果の価値はそれが現れるまでは大抵誰にも分からない。(「科学者とあたま」。読み仮名は筆者)
結果を過度に恐れず、「もっと知りたい」「新しい世界を切り開きたい」という情熱に突き動かされるとき、科学も、そして社会も前へ進んでいくのでしょう。卑近な例として経営者である自分のことを申し上げれば、私の目指すことについて「それは無理だよ」と人に言われようとも、自分でやってみないと気が済まないのです。実現が困難に見えることは踏みとどまる理由にはならず、失敗するにせよ、とにかくやってみないことには始まらないのです。面倒な性格なのかもしれません。
最後に、当プロジェクトは「研究スキル売買」とは無関係であるとする点について。何よりもまず、当方は匿名でスキルを提供するものではなく、自分は何者かであることをウェブサイトで明記し、ご利用を希望される方にはプロジェクトの内容やポリシーについての説明資料を提供した上で、ご利用いただいています。当然のことながら、ご利用者の方も匿名ではお申し込みいただけません。また、代筆も一切行いません。現実的には理系の学位を持たない私にやりようがあるはずもないのですが、新聞記事に引用されているのと似たようなケースで、問い合わせを受けたことはあります。もちろんお断りしました。
ポリシーとしては、リトラクション履歴を公開情報で調べており、そこでヒットした場合は、ご依頼をお受けしないことにしております。リトラクションの背景には様々な事情や理由があると理解しておりますが、信頼関係に基づいてお仕事を提供する上で、何らかの疑義がある状態では難しいとの判断によるものです。
先述の随筆を寺田寅彦全集(第五巻)で引いていたら、続くページに収載されていたのは「学位売買事件」についてでした。具体的にどの事件を指すのかがわかりませんでしたが、寺田によれば博士号を金で買ったという人が出て当時の新聞を賑わせていたようです。単なる偶然とはいえ気になったので、せっかくですから引用します。
「日本の学術が進歩したとはいうもののまだ十分とは云われない」と寺田は言います。物理化学の当時の国際的ジャーナルの名を挙げて、日本人の論文の数は3%程度だとしています。
少数な世界の強国の中の日本ととしてはあまりに少ない比率である。軍艦の比率を争うのも緊要であろうが、科学戦に対する国防がこの状況では心細くはないか。(…)学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような論文でも沢山に出るうちには偶にはいいものも出るであろうと思われる。(「学位について」)
ちなみに学位売買事件に関する文章は、昭和9(1934)年4月の執筆です。
(追記)
寺田の引用に関して、説明不足の部分があったので補足します。寺田が「学位のねうちは下がるほど国家の慶事である」と言っている箇所の直前で省略した文章は、「繰り返して云うが、学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励の足しになるであろう」です。
この文章の背景には、学位を金銭で売買したという一大スキャンダルの煽りを受けて、学位を授与するのをためらう人まで出てきていることがあったようです。文章はそのことを批判して、きちんと学位を授与すれば学位保持者が増える→論文の数が増える(「紙屑」も含めて)→科学の質が少しずつ上がる→国家の慶事である、と述べています。同時に、学位を保持する者が増えれば、金銭で得ようとする価値がなくなるだろうとのロジックです。
この部分を引用しないままに「学位のねうちは下がるほど国家の慶事である」とだけ書いては、理解に苦しむ部分があったかと思います。お詫びして追記します。
せっかくですので、寺田が同様のことを詳しく述べている部分も合わせて下に引用します。
学位授与恐怖病の流行によって最も損害を受けるものは、本当に独創的な研究によって学位を請求する人達であろう。独創的なものには玉もあるが疵(きず)も多い。疵を怖がる目には疵ばかり見えて玉は見えにくい。審査者に十分の見識がないと、そういうものの価値の見当はつけにくいものである。(「学位について」)
出典:「寺田寅彦全集」第五巻。1997年。岩波書店。
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